上方落語界初の人間国宝・桂米朝さんがドラマ化されNHKで放映されました。
生誕100年にあたり、NHK大阪放送局が特番「桂米朝なにわ落語青春噺」として、2025年6月21日に放映したものです。
桂米朝さんの、端正でどこか上品な話芸に魅了された落語ファンは多かったですね。
戦後滅亡の危機にあった上方落語を復興させたエピソードは、あまねく知られるところです。
ドラマでは米朝役を演じたのは孫弟子の桂吉弥さんでした。
米朝宅で内弟子修業をした経験をもつ噺家ですが、落語の域にとどまらず幅広く芸能活動をこなすタレントでもあります。
桂米朝さんの経歴
桂米朝さんの経歴です。
1925年(大正14年)
中国大連で生まれ、兵庫県姫路市出身
1943年(昭和18年)~
大東文化学院進学のため上京
正岡容(作家・落語寄席研究家)に入門
1947年(昭和22年)~
9月、4代目・桂米團治に入門
1966年(昭和41年)~
7月、初めての独演会を京都会館で開催
10月、桂米朝落語研究会を安井金比羅宮会館(京都市東山区)で開く
1967年(昭和42年)~
5月、東京・紀伊国屋ホールで初の独演会「桂米朝 上方落語の会」を開く
1987年(昭和62年)~
4月、紫綬褒章受章
1996年(平成8年)~
上方落語界初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
2002年(平成14年)~
11月、文化功労者顕彰を受ける
2009年(平成21年)~
11月、文化勲章受章
桂米朝さんは演じるだけでなく、埋もれていた噺を復活させたり、上方落語を印刷物や音源にして残しています。
現在では若手落語家の教科書として活用されています。
後進の育成にも尽力されました。
これらの多大な功績が認められ、落語家初の文化功労者の顕彰、文化勲章の受賞となりました。
桂米朝さんの落語への想い
桂米朝さんは、幼少期から演芸好きの父や叔父に連れられ寄席に通っていたそうです。
その頃から落語には親しみを感じていたのでしょうね。
1943年、旧制の大東文化学院へ進学のため上京しています。
そこで、落語・寄席研究家でもあった正岡容(まさおかいるる)と出会い、門下生となります。
それが縁となり、5代目・笑福亭松鶴や3代目・桂米之助らの上方落語家と知り合いとなりました。
1945年2月に応召し陸軍へ入隊しますが、病に倒れ姫路の実家で終戦を迎えています。
終戦後は復学せず、一人の落語ファンとして地元で、落語会開催などの活動をしていました。
その頃、上方落語は消滅の危機にありました。
正岡容の言葉「消滅の危機にある上方落語復興に力を尽くせ」に促され、本格的に落語家を志します。
3代目・桂米之助を通じて知り合っていた4代目・桂米團治の弟子となり落語家生活をスタートしています。
上方落語四天王
現在の上方落語界隆盛の基盤を築いた、と云われる4人の落語家を紹介します。
6代目・笑福亭松鶴、3代目・桂春団治、5代目・桂文枝、それと他ならぬ3代目・桂米朝です。
桂米朝さんの入門当時は、上方落語は消滅の危機にあったそうです。
4人は、それぞれに芸風は違い個性的でありましたが、同じ想いで上方落語復活に力を尽くしました。四天王と呼ばれる4人の上方落語家の功績は、誰もが知るところとなっています。
昭和40年代でも、地方に行けば落語は人気テレビ番組「笑点」だと思っている人がいたとか。
落語は、その程度の認知度だったようです。
そんな中での復活でしたので、やはり凄いことだったのですね。
高い評価の文化貢献
桂米朝さんは、1958年頃から放送タレントしても活躍が始まります。
ラジオ、テレビで多くの番組に出演し、人気を不動のものにしていきます、
一方で、落語研究にも力を注ぎ、埋もれていた多数の落語を復活させています。
「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」、「百年目」などが知られています。
地道な努力を重ねてこられた成果です。
これらの成果は高い評価を受けています。
そのことは数々の受賞歴からも窺うことができます。
1987年 | 紫綬褒章 |
1996年 | 人間国宝 |
2002年 | 文化功労者顕彰 |
2009年 | 文化勲章 |
そんな多忙の中でも、弟子の育成にも注力されています。
端正で上品な芸風を持つ米朝さんとは違った、個性的なお弟子さんが多く育っています。
2代目・桂枝雀、2代目・桂ざこば、桂吉朝、他に多くのお弟子さんがいます。
孫弟子も含めるとかなりの人数の一門になりますね。